静岡地方裁判所沼津支部 昭和35年(わ)269号 判決 1960年12月26日
被告人 菅野政隆
昭一三・五・二六生 無職
主文
被告人を傷害罪により懲役四月に処する。
未決勾留日数中本刑に満つるまで算入する。
公訴事実中中島今朝広に対する公務執行妨害の点については無罪。
理由
一、犯罪事実
被告人は昭和三五年七月二七日午前五時頃沼津市大手町一七〇番地森田歯科医院前路上において沼津警察署巡査須藤(旧姓中島)今朝広、同鈴木文雄、同高橋栄太郎の三名から沼津警察署又は国鉄沼津駅前派出所に同行することを求められたが、これに応ぜず、その場を立去ろうとしたところ、右巡査三名が被告人を逮捕しようとし、やにわに須藤、鈴木両巡査が被告人を押し倒し、須藤巡査は被告人の首を押え、鈴木巡査は被告人の左手を逆さにひねり、高橋巡査が手錠をかけようとしたので、これを排除するため所携の切出ナイフをもつて鈴木巡査の左手背(公訴事実中右手背とあるのは誤記と認める)に切り付け、よつて同巡査に対し全治約一〇日間を要する左手背切創の傷害を負わせたものである。しかし、右巡査三名の右逮捕行為は違法なものであり、被告人は右巡査らの急迫不正の侵害に対し自己の権利を防衛するためやむをえず本件行為に出でたものであるが、防衛の程度を超えたものである。
二、証拠の標目(略)
三、前科
被告人は昭和三四年一月一四日福島地方裁判所平支部において窃盗、恐喝罪により懲役一年二月に処せられ、同三五年三月一三日右刑の執行を受け終つたもので、右は前科調書、被告人の当公廷における供述により明らかである。
四、法令の適用
被告人の判示所為は刑法二〇四条罰金等臨時措置法二条三条にあたるから、所定刑中懲役刑を選び、前示前科があるから、刑法五六条五七条により再犯の加重を、過剰防衛行為であるから同三六条二項六八条三号により減軽した刑期範囲内において被告人を懲役四月に処し、未決通算につき刑法二一条を適用し、訴訟費用は刑訴法一八一条一項但書に従い被告人に負担させない。
五、無罪及び一部無罪の理由
公訴事実は、被告人は
第一、昭和三五年七月二七日午前四時頃沼津市大手町一〇〇番地城岡神社前路上において偶々警ら中の沼津警察署巡査中島今朝広から挙動不審者として職務質問を受けた際、突如逃走したので、さらに職務質問をするため追跡され右場所から同市上本通り一〇番地先路上に追いつめられるや同所において矢庭に同巡査の胸元をつかんで突き飛ばすなどの暴行を加え、もつて同巡査の職務の執行を妨害し、
第二、同日午前五時頃同市大手町一七〇番地森田歯科医院前路上において前記中島巡査及び応援の沼津警察署巡査高橋栄太郎、同鈴木文雄の二名から前記公務執行妨害の準現行犯人として逮捕されようとした際、逮捕を免れようとし、所携の切出ナイフをもつて鈴木巡査の左手背に切りつけ、もつて同巡査の職務の執行を妨害し、右暴行により同巡査に対し全治一〇日間を要する左手背切創の傷害を負わしめ
たものである、というのである。
当裁判所は本件につき取り調べた証拠にもとづいて次のような事実を認め、次のような理由で、第一についてはその全部について、第二については公務執行妨害の点について被告人は無罪であると考える。
すなわち、中島今朝広、高橋栄太郎、鈴木文雄の司法警察員に対する各供述調書、証人須藤今朝広、同高橋栄太郎、同鈴木文雄の当公廷における各供述、司法警察員作成の実況見分調書、被告人の検察官に対する供述調書書、被告人の当公廷における供述を総合すれば、おおむね、次のような事実を認めることができる。
(一) 被告人は昭和三五年七月二七日午前四時頃沼津市大手町一〇〇番地城岡神社前路上の屋台店の傍らにおいて酔いを冷ましていたところ、偶々警ら中の沼津警察署巡査須藤(旧姓中島)今朝広が被告人を発見し懐中電灯を照らしたので、被告人はそれより少し前些細なことから氏名不詳の男を手拳で殴打して逃げたことがあつたため、右巡査をその男と誤信して西方に逃げ出した。同巡査は被告人をその異常な挙動その他周囲の事情から何らかの罪を犯したものと認め、被告人を追跡した。そして、同市大手町八〇番地喫茶店「ボン」前路上で被告人を停止させ、「何故逃げるのか」と尋ねると、「酔払いに追われているのでその人と思つて逃げた」と答え、さらに、西方に逃げたが、同町七二番地関東電気工事株式会社沼津支店前路上において被告人の肩辺りに手をかけて停止させた。被告人は、さらに、逃げ出そうとしたので、右手でその襟元を掴み、被告人に明るい所へ出るように誘したが、被告人は自分は何もしていないとか、人に見られたくないとか述べて逃げ出そうとするので、同巡査は、被告人は何らかの罪を犯したのではないかとの疑念を益々深め、被告人に対し派出所に同行することを求めたが、被告人はこれを拒絶した。そうこうするうちに、同巡査は被告人の襟元を掴んだまま、約一〇米西方の同市上本通り一〇番地高橋衣料店前路上に至つた。被告人は比較的明るかつた右大通を嫌い、元の方へ戻ろうとしたが、同巡査は被告人の襟元を掴んで離さないので、被告人は巡査の手を除けようとして巡査の胸元を掴んで押したり引いたりしたが、同巡査も被告人の襟元を掴んだまま離さなかつたため、同巡査の上衣の釦が三、四個落ちてしまつた(被告人が同所で追い詰められたという点、被告人が同巡査を突き飛ばしたという点についてはこれを認めるに足りる証拠はない)。
そこで、同巡査は被告人に対し「そんなことをすると公務執行妨害になるぞ、とにかく交番までくるか。」というと、被告人は手を離し一応同行することに応じ、元きた道へ引き返えしはじめ、間もなく、被告人が逃げないから手を離してくれといつたので、同巡査はそれまで被告人の襟首を掴んでいた手をようやく離した。ところが、被告人は国鉄沼津駅前派出所の方には行かず、かえつて反対の方向に歩き森岡医院の角を東に曲り大手町の電車通に出て終つた。同巡査は被告人を沼津警察署へ同行しようとし沼津駅の方に歩かせたが、被告人は前記城岡神社前路上に行き同所で同巡査に同行することを拒み、そこから動かなかつた。そこで、同巡査は被告人に対し住所、氏名等を尋ねたが、被告人は家へ帰るといつて前記電車通りに引き返えし電車通りを南へ下り、同巡査も被告人と並んで同市大手町一七〇番地森田歯科医院前路上まで行つた。同巡査は再三にわたり被告人に同行を求めたが、被告人がどうしてもこれに応じないので、被告人に対する疑念をいよいよ深め、警察署又は派出所に同行させ被告人を取り調べる必要があると考え、同所で停止させて職務質問を続けた。
(二) その頃は午前五時頃になつていたが、同所で職務質問を続けているところへ沼津警察署中央派出所から高橋栄太郎、鈴木文雄の両巡査が上司の命令でやつてきた。両巡査は一応須藤巡査にそれまでの経過を聞き、公務執行妨害の犯人として逮捕しようかと諮つたが、同巡査はそれ程でもないと答えたので、高橋巡査は被告人に対し改めて職務質問を行つた。被告人は「本籍、住居、職業、氏名等はすでに須藤巡査に述べたから、再びいう必要はない。悪いことはしていないのに大勢きて何んだ。」とかえつて反抗的に出た。そして、須藤巡査は被告人に対し所持品の呈示を求めたところ、被告人はこれを拒んだが、身体に触る位ならよいだろう、触らせてくれと要求し、同巡査は被告人のオープンシヤツ、ズボンのポケツト等を外から触つて所持品を検査した。その結果、栓ぬき、ローソク、キヤラメル等が発見された。高橋、鈴木両巡査も、須藤巡査と同じく、被告人が窃盗犯人ではないかと疑念を抱き、被告人に対し警察署又は駅前派出所に同行することを求めたが、被告人はいぜんとしてこれに応ぜず、かえつて家へ帰るといつて二、三歩歩きかけたが、鈴木巡査は「どうしても帰るなら、君は須藤巡査に乱暴して制服の釦をむしり取つたことは公務執行妨害になるぞ。」といつて、鈴木、須藤両巡査がそれぞれ被告人の腕を掴んで押し倒し、須藤巡査が首の辺りを押え、鈴木巡査が左手を逆にひねり、高橋巡査が手錠をかけようとした際、被告人は所携のナイフで鈴木巡査の左手背に切りつけ、同巡査が「やられた」と叫び、高橋、須藤両巡査も手を離したので、被告人はその隙を見て逃走したものである。
そこで、まず、第一の公訴事実につき須藤巡査の職務執行の適否について考えて見よう。
須藤巡査が城岡神社前路上において被告人を発見したのは午前四時頃で、附近には通行人はなく、被告人が屋台店の陰におり懐中電灯で照らされるや否や逃げ出したのであるから、同巡査がその挙動その他周囲の事情から合理的に判断して被告人が何らかの罪を犯し又は犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由があるものと認めたことは当然なことといわなければならない。従つて、被告人を追跡し、「ボン」喫茶店前路上において停止させて質問しようとしたことは正当なことである。
しかし、被告人は、さらに、逃げ出したので関東電気工事株式会社沼津支店前路上において被告人の肩に手をかけ、再び停止させたところ、被告人は、又もや、逃げようとしたので、その襟元を掴みそのまま約一〇米西方の高橋衣料店前路上までその手を離さなかつたのである。警察官職務執行法は、その規定から明らかなとおり、犯罪捜査のための強制権について刑事訴訟法の規定に何ら附加するものではない。従つて、同法に「停止させて」質問することができるというのは、停止を命ずることができるという趣旨にすぎず、相手方はこれに応ずる義務はない。さらに、注意すべきことは、被告人に対し派出所へ同行を求めたことである。警察官職務執行法によれば、派出所へ同行を求めることができるのは、「その場で質問することが本人に対し不利であり、又は交通の妨害になると認められる場合」に限られている。被告人は明るい所は人に見られるから厭だといつたこと、交番なんぞに行くことは厭だと拒絶していたこと、その附近の新聞販売店に配達人が若干出入していたことは認められるが、早朝四時過頃であり、通行人は殆んどなかつたから、前記のような場所で質問することが被告人に対して不利であり又は交通の妨害になるとは到底認められない。従つて、須藤巡査が被告人に対し派出所へ同行を求めたことは違法である。又同法は刑事訴訟法の規定によらない限り、その意に反して警察署又は派出所に連行されることはないと規定している。それにもかかわらず、須藤巡査は、前記認定のとおり、被告人に対し派出所へ同行を求めたのみならず、その襟元を掴んだまま離さなかつたのである。高橋衣料店前路上における須藤巡査の右行為は、右に述べたごとく、重要な法律上の要件を欠いていることは明白であるから、違法なものといわなければならない。被告人は須藤巡査が自己の襟元を掴んで離さないので、これを排除するため同巡査の胸元を掴んで押したり引いたりしたのであり、その際同巡査の上衣の釦が三、四個路上に落ちたのである。従つて、同巡査の右公務の執行は違法なものであるから、公務執行妨害罪として保護するに値しないものというべく、被告人の右行為は公務執行に対する違法な反抗行為とはいえない。かようにしてて、被告人の右行為は公務執行妨害罪を構成するものではない。そこで、この点につき刑訴法三三六条に従い、被告人に対し無罪の言渡をする。
次に鈴木巡査に対する公務執行妨害の点について検討しよう。
須藤巡査は、前記認定のとおり、なおも、被告人に対し質問を続け、あくまで沼津警察署又は派出所に被告人を連行しようとし、しつように、被告人につきまとい、同日午前五時頃森田歯科医院前附近路上において質問を続けているところへ高橋、鈴木両巡査が応援にきた。両巡査は須藤巡査にそれまでの経過を尋ね、さらに改めて被告人に質問し、所持品の呈示を求めた。被告人はこれを拒絶したにもかかわらず、須藤巡査は身体に触れる位はよかろうといつて被告人の身体を検査したことが認められる(右巡査三名は被告人は身体に触る位ならよいと承諾したというが、被告人は承諾したことはないという。右巡査三名の右供述は必ずしも措信できない。たとい、被告人がやむなく応じたとしても、真意に出でた承諾があつたものとは到底認められない。)。警察官職務執行法は、刑事訴訟法により逮捕されている者については、その身体について兇器を所持しているかどうかを調べることができる、と規定しているにすぎない。従つて、右身体検査も明らかに違法なものといわなければならない。しかし、これは、しばらくおくこととしよう。身体検査の結果、被告人のポケツトから栓ぬき、ローソク、キヤラメル等が発見されたので、右巡査三名は被告人は窃盗犯人ではないかとの疑念を深め、被告人に対し警察署又は派出所への同行を求めたが、被告人はこれに応ずることなく、かえつて家へ帰るといつてその場を立ち去ろうとしたので、須藤巡査に対する公務執行妨害の準現行犯人として被告人を逮捕しようとし三名で被告人を取押えようとした。右逮捕行為は果して適法な職務の執行といえるであろうか。
さきに述べたごとく、被告人の須藤巡査に対する公務執行妨害罪は成立しない。右巡査三名は主観的には準現行犯人逮捕にあたると信じたというが、果して被告人を準現行犯人と信ずるについて相当な理由があつたかどうかを考えて見よう。高橋、鈴木両巡査は中央派出所において上司から「若い巡査が酔払いと争い服を破られているから応援に行け」という程度の命令を受けて現場へ赴いたものであり、現場においても須藤巡査から挙動不審者に懐中電灯を照らすと逃走したので追跡して捕えたのがこの男で、警棒で相手の肘を殴つたといつて怒つて制服の釦をちぎり取つた旨の報告を聞き、釦のなくなつていることを確認したのみで、それ以上詳細にはその経過を聞いたものとは認められない。鈴木、高橋両巡査は被告人がいかなる罪を行い終つた者であるかを明確に認識していたかはきわめて疑しい。現に、両巡査が須藤巡査に対し「公務執行妨害でやる(逮捕する)か。」と尋ねたところ、同巡査はそれほどではないと答えている。右巡査三名の供述を見ると、いずれも果して準現行犯人逮捕の法律上の要件を熟知していたかは甚だ疑わしいのみならず、被告人が犯人として追呼されていたとか、あるいは、誰何されて逃走しようとしたとかいうけれども、これらを肯認するに足る事実は認められない。又その他刑事訴訟法二一二条二項所定の事由にあたる事実も認められない。従つて、右巡査三名が被告人を公務執行妨害の準現行犯人と信ずるについて相当な理由があつたものとは到底認めることはできない。要するに、右三名の前記逮捕行為は違法なものであり、公務執行妨害罪による保護に値しないものといわなければならない。しかし、被告人の鈴木巡査に対する傷害の行為は、鈴木巡査らの違法な職務の執行を排除するため已むをえない程度を超えたものと認められるので、いわゆる過剰防衛行為と認定したのである。そこで、公訴事実第二のうち公務執行妨害の点も罪とならないが、これと傷害の点とは一個の行為で二個の罪名に触れるものとして起訴されたものと認められるから、主文においてとくに無罪の言渡はしない。
(裁判官 中島卓児)